キューバ 危機 と は。 世界最大の危機!?キューバ危機について解説!

🤛 6つの選択肢 [ ] 国防長官と話すケネディ(6月) ここでメンバーがこれから行動に移す可能なコースとして、• また1960年に核保有国となっていたフランスは、アメリカの同盟国に対する姿勢に不信感を持ち、ドゴール大統領は独自の外交を展開する。

その後にケネディはまず封鎖から着手すべきとして、空爆と侵攻を主張するメンバーにそういう作戦がその後に絶対に採られないことではないと解してよろしいと言葉を続けた。

⚔ 僕「人生で一番怖かったニュースってなに?」 祖父「キューバ危機のときかな…」 僕「キューバ危機ってそんなにやばかったんだ」 祖父「本気で核戦争になると思ったよ」 これは僕がまだ20歳そこそこの時に祖父とした実際の会話です。

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ソ連のドブルイニン大使が国務省に招かれたのが午後6時でほぼ同じ時刻でモスクワでコーラー駐ソ大使がクレムリンに向かった。

⌚ 海上封鎖決定 [ ] 20日午後2時30分からの正式な会議(国家安全保障会議第505回会議) で、ケネディはまずマコーンから新しい航空写真とその他の情報を提出させて、その後で、 1 まず封鎖から始めて必要に応じて行動を強めていくか、 2 まず空爆から始めて最後は侵攻を覚悟するか、という2つの選択肢を基幹としてそれから派生する分枝の問題が提示された。 この席でケネディは直面する危険とこれに対処するあらゆる行動を即時徹底的に調査するように命じた。 フルシチョフのキューバ戦略とベルリン戦略は連結していると考えているケネディは、フルシチョフがキューバで揺さぶることで西ベルリンを一挙に解決する(要するにソ連にとっては獲得する)ことを目指したものであると結論を出していた。

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絶対に使いたくない、使われたくない。

✊ またキューバ軍の兵士の数は、アメリカ側の見積もりの数千人ではなく4万人であった。 そしてアメリカにこの返信がすぐに届くように前回と同じくモスクワ放送を通じて早急に読み上げるよう命じた。 「何故,ミサイル撤去の公約だけでは不十分なのか? キューバに侵攻しないという米国の公約を評価するのなら,侵攻を防ぐための兵器を撤去するという公約を,なぜ米国と同じように評価できないのか」と反論しました。

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自国のすぐ近くに社会主義国が出現したことはアメリカにとって大きな脅威となりました。 そして、兵員数と物資で圧倒的に劣勢であった反カストロ軍がキューバ政府軍に勝つためには、アメリカ軍の介入が必要と見たCIAは作戦計画にこれも組み入れていた。

👎 不況、ベトナム戦争、財政赤字で民主党の支持率は下がり、68年の大統領選挙で民主党は共和党に敗北。 しかもこの会議にはいつものメンバーに加えて、それ以外の顔ぶれを集めたので後に(エクスコム)と呼ばれることとなった。

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そしてケネディは軍部と朝に会議を行った。

☎ はたしてこんな人物に核兵器の発射ボタンを托して良いのか、誰しも不安を感じざるを得ないだろう。 この後8月にチェ・ゲバラらが訪ソして再調整し改めて2国間の「軍事協力協定」が結ばれた。

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キューバにソ連軍のミサイル基地が建設中であることに抗議して,1962年10月22日以降,米国が戦艦と戦闘機でキューバを封鎖した事件。 艦艇200隻に航空機1200機を動員したというから本気ですね。

⚠ ケネディはアメリカ軍最高司令官としての権力に依存して軍事政策を決定したが、この権力は翌1963年11月22日のケネディ暗殺事件後に昇格したジョンソン大統領によってさらに頻繁に使われるようになっていくことになった。 ちなみにホワイトハウスとクレムリンを直接結ぶホットライン協定や部分的核実験停止条約の締結などはこの時の産物ですね。 キューバ危機は、1962年10月16日から28日に米ソで全面核戦争寸前の危機的状態になったこと• その核ミサイルを、空軍の偵察機が撮影した写真で見つけたアメリカは、そりゃもうビックリです。

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この段階で封鎖と空爆の2つの選択肢が残っていたが、実際は二者択一ではなく、海上封鎖から空爆へという考えと、どちらにせよ最後はキューバ侵攻へという考えで、このエクスコム会議に出席していたメンバーの大半は最後は侵攻する必要があることを理解していた。

🤟 アメリカとしては核兵器は絶対に使われたくない。 敵からの攻撃を防ぐためにソ連の力を借りて核武装したという理屈が成り立つんだよね。

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1つはケネディ大統領宛てで「平和への重大な脅威であり、海上封鎖は国際法の重大な違反行為でアメリカは壊滅的結果を招く可能性がある」として激しく非難した。 カストロは1953年、国内で武装蜂起するも失敗し、懲役15年の刑を受けますが、大赦により釈放され、 へ亡命。