🙏 それによつて 高倉の院の皇子、 主上の外に三人までござつたが、 二の宮をば平家からして取りまらして、西國へ下つたによつて、 三 四の宮ばかり都にござつたを、 法皇此の宮たちを呼寄せまらせられて、まづ 三の宮の五つにならせらるゝを、「さて何と、こなたへこなたへ。
7[言ふかひなき] 取るに足りない。 甲斐の一条次郎とこそ聞け。
14 惟盛都落ち (これもりのみやこおち) 維盛は都に残す妻子達が泣きすがるため、出発がおくれました。
☺ 生捕りにせられた者も多かつた 中 うちに、燧が城で心變りをした 齋明威儀師も捕られたと聞えたれば、 木曾これを召寄せて前に引据ゑてやがて首を刎ねられた。 1 清水冠者 (しみずのかんじや) 寿永二年三月、頼朝と義仲との間に不和が生じ、頼朝は信濃へ出兵します。
義仲討つて、兵衛佐に見せよや。 南無帰命頂礼、八幡大菩薩、願わくは、帝をはじめ我らをもう一度都へ帰らせてください• ことの体、何となうあはれなり。
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🖖 惟祖父大太夫は大太(だいた)と名づけた 間もなく娘は,大蛇の予言どおり男子を産んだ。 [自害をせんずれば] 自害をしようと思っているので。
俊成は、死を前にして風雅の道に徹する忠度に感動して、「千載集」編集の際に朝敵として死んだ忠度の歌を一首「詠み人知らず」として入集させたのだった。 」というて、 重盛の墓を掘り起いて、あたりの鴨川へ流させ、骨をば高野へ送つて、「世の中は頼もしうない。
その指示内容を、具体的に説明せよ。
⚑ 」と言い残して恩師に別れを告げ、西国へと落ちて行ったのです。
8=世が静まりましたならば、勅撰和歌集のご下命があ りましょう。
続く勢は候はず。
❤️ 平家に同心を求める願書でしたが、座主はこれを十禅師権現の社殿に納め、三日間加持祈祷の後衆徒に披露しました。 17 経正の都落ち (つねまさのみやこおち) 都落ちの直前、経正は幼少時代に仕えた御室仁和寺を訪れます。 [原文] その後、世静まつて、千載集(せんざいしふ)を撰ぜられけるに、 忠度のありさま、言ひ置きし言(こと)の葉(は)、 今更(いまさら)思ひ出でてあはれなりければ、 かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、 勅勘(ちよくかん)の人なれば、名字(みやうじ)をばあらはされず、 「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「読人(よみびと)知らず」と入れられける。
3そのことが語られて「祇園精舎」の章は終わります。 と頼りなさげに言われた• 成親の嫡男・成経(なりつね)も捕えられ、やはり流罪に。
せめて行幸だけでも成功させ、ひとまず落ち延びようと思っているところだ• 大納言が「同じ殺されるのならば、都近くのこのあたりで殺してくれよ」とおっしゃったのも、よほどの事である。
🤲 [訳:蓬田(よもぎた)修一] [原文] 薩摩守(さつまのかみ)忠度(ただのり)は、いづくよりや帰られたりけん、 侍(さぶらひ)五騎、童(わらは)一人(いちにん)、わが身ともに七騎取つて返し、 五条三位(ごでうのさんみ)俊成卿(しゅんぜいのきやう)の宿所におはして見給(たま)へば、 門戸を閉ぢて開(ひら)かず。 わが君(=安徳天皇)はすでに都をお出でになりました。
5激怒した清盛はすぐさま計画の首謀者たちを、後白河上皇を除き、捕らえ、処罰します(いわゆる鹿の谷事件。
義仲は意趣のないことを示すために、十一歳になる嫡子清水冠者義重を人質に差し出したので、頼朝も納得し鎌倉へ帰ります。
😩 さて、重盛殿のところの公達は兄弟六人、総勢千騎ほどで、淀の六田河原で行幸に追いつかれた• 三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。 」と思うたれば、思切つて勢をば 維盛の方へ奉つて、われは 乘換 のりがへ一匹具して、 宇都宮と打連れて、平家と 後合 うしろあはせに關東へ落ちて行いてござる。 」とお名乗りになると、(屋敷の住人達は)「落人帰ってきた。
16源氏に京を追われ、負け戦を繰り返し、壇の浦の合戦で滅んでいった時代。
大納言藤原成親(なりちか。
☮ 御身は疲れさせ給ひて候ふ。
13さざ浪や 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな (訳)さざなみの寄せる志賀の都は荒れ果ててしまったが、長等山の桜だけは昔と同じように咲いていることだ。
修理大夫経盛殿はこう詠んだ• それによつて、われ先き\/にと落ちた。
🤫 「落ち武者が戻ってきたぞ」ということで、屋敷の中には入れてもらえなかった。 正盛の子が忠盛で、忠盛の嫡子が平清盛です。
3[あますな] 一人残らず討ち取れ。 」といはれたれば、 野尻歸つてこの由を 父 (*緒方維義)に云うたれば、「それならば急いで追出せ。
縦様・横様・蜘蛛手・十文字 *1 に駆け割つて、後ろへつつと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。