くれ ない の 二 尺 伸び たる 薔薇 の 芽 の 針 やわらか に 春雨 の ふる。 中学2年生の国語の問題

⚛ 「くれないの」は薔薇にかかるのではないでしょうか。 Q 「くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る」 此の短歌についての質問を他の方の質問ページで拝見していた時に、拙い疑問が思い浮かびました。

短歌では特に強めたい部分を取り出して別のところにもっていったりします。

😗 つまり「花の無い枝だけの薔薇が植わっており、本当は殺風景なのではある。

艶やかで美しいことだなあ、と独り言を言いつつ、藤の花にまつわる物語などふと思い出しているうちに、歌を詠みたいという気持ちが沸き起こってきた。 近くに薔薇園があり、薔薇の開花期は一般には5月~6月です。

😎 そこでもう一度上の句から辿り始めて、まずは「くれなゐの」が呼び込む「万葉ぶり」や、「薔薇の芽」の一連語を拾い、上末5と下始め7の助詞の交差などを、主題は薔薇の芽と雨との「やはらか」な関係であることに焦点を合わせると、ようやく詠み手の隅々まで廻らされた巧みさと素朴さのコントラストに驚かされる次第です。 ここまでで確実に言えるのは、次のことです。

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そんな中で掬った後の金魚の姿を見て、詠み手はがく然とするわけですので、詠み手の心理を鑑賞するのはもちろんですが、それだけではなく、1匹だけ掬われた金魚の「思い」を、人間の楽しい雰囲気・雑踏などと対比して推測してみると、もう少し深みのある鑑賞文になるかもしれません。

⚡ 文法と語の解説• この頃に次のような歌もあります。 何かさびしさがあった上で、次の季節に想いを馳せたと言えます。

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*この歌の句切れについて。

💖 「柔らかに柳靑める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」(石川啄木) この歌の句切れは、目に見ゆ」の所です。 すると、これはあたりまえの何でもない情景を詠っているということになります。

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しかしそれ以上先は、解釈の問題が入ります。

🖕 係助詞「ぞ」「なむ」「や」「か」は連体形で結び、「こそ」は已然形で結ぶ. 紫色の花が房になって枝垂れて咲くのが特徴です。 赤いラインが茎にすっと出ているところをみると赤い薔薇が咲くのかも・・茎はしっかりと 太目ですから花は大輪かな・・これから咲こうする花のシルエットが浮かび上がります。

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「くれなゐ:紅色(べにいろ)」なのは「薔薇の若芽」です。 当時の教師がそのように教えたのか、自分が勝手にそう解釈したのかは覚えていない。

🤑 連作の第二首目の短歌は「母星」 としている。 以下のような場合があります。

子を思う「母」の眼差しのような慈愛 に満ちたものだったのだろうか。

🤚 図解です。 あまり影響がないなら、雨があがってから詠めばいいのですから。 啄木や晶子が「情」だとするとね。

針やはらかに さらにです。 歌会における一題十首の作品らしい(和歌で藤原定家 なども取り入れた方法) 死後、伊藤左千夫らによって編集された『竹の里歌』 所収(明37=1904) 〈主題〉(心情) 美しい星空を見ていたら <自分を待ち望んでいる輝かしいものがある>という 思い(夢・希望)を抱いた 〈鑑賞〉(補足) ・芥川龍之介が『侏儒の言葉』に引用してから、子規 の代表作の一つとしてよく知られるようになった。

☮ とばり垂れて 君いまださめず紅の 牡丹の花に朝日さすなり 夏の日の 旅行く人の影たえて 那須野の原に夕立のふる 夏の夜の 月の光し清ければ 加茂の河原に人つどひけり 夏の夜の 月をすずしみひとり居る 裸に露の置く思ひあり 何見ても 昔ぞ忍ぶ中んづく 隅田の夏の夕暮の月 ひぐらしの 谷中の杜(もり)の下陰を 涼みどころと茶屋立てにけり 見し夢の 名残も涼し檐のはに 雲ふきおこる明がたの山 檐の読みは「のき」で、「ひさし」と読むこともあります。 すみません、いろいろ探して頂いたのに。

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でも、茎が紅色って考えにくいです。 「薔薇」は「ばら」と読み、ローズのことです。