とき は 今 あめ が 下 なる 五 月 哉。 明智光秀の決意表明の連歌とは?

🤫 2)「望月の歌」も晩年の病気と病気ので詠まれている。 この和歌を長句(五・七・五)と次の短句(七・七)、さらに長句(五,七、五)、短句(七、七)と次々に数人で代わる代わる詠みあげて皆で一遍の詩を作っていきます。

本能寺の変はこの連歌会から間もない6月2日に起きているのです。 藤孝は第一の連歌師であった里村紹巴(さとむらじょうは)(1525~1602年)とも交流があり、光秀は一流の文化人との付き合いを通して教養を深めていきます。

📞 既渉桂川。 リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。

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さて 愛宕 あたご 連歌会 れんがえ です。 そこには「下なる」を「下しる」に書き直した跡があり、当初は「下なる」であったものを、誰かが自分を貶めるために「下しる」と書き直したものと弁明し、追及をかわしたと伝える。

👈 本日のテーマは 「本能寺の変」です。 「曇りのち雨」の意味だが、この点、奈良の多門院にあった英俊が、『多門院日記』の 24日の条で「少々降始」と書き記している。

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ところが光秀は謀反実行日の天正10年(1582年)6月2日の3日前の5月28日に開催された 連歌会 れんがえ で 、光秀が謀反を臭わせる句を詠んでいたと言う説が古今言われてきました。

🐲 秀吉が同記にかけた偏向は、光秀単独犯説を流布することにあったが、しかしほぼ周知のことについて偽りの日付で押し通すほど厚顔だったろうか。

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光秀はあらかじめ謀叛を計画していたのか ときは今 あめが下知る 五月哉(さつきかな) 天正10年5月27日、中国出陣を控えた光秀は京都の 愛宕(あたご)山に登り、愛宕神社に参詣しました。 愛宕百韻について さて、光秀と連歌を語る際、決して切り離して語れないのが「愛宕百韻」です。

☯ この「天が下知る」とは、天下を治める、という意味であり、句は、「時は今、天下を治める五月となったことよ」となる。 世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。 光秀は、出発前に戦勝祈願と称して、愛宕山(京都の西)白雲寺西之坊で、住職の行裕を亭主とし、自分を主賓、宗匠(指導役の連歌師)を 紹 しょう 巴 は とし、そして計9名で連歌会を開催しました。

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会によって何人で何句つくるかまちまちです。

☕ 明智光秀の連歌〜時は今天が下知る五月かな〜意味と解釈 〈原文〉 時は今 天 あめが下知る 五月 さつきかな 〈現代語訳〉 時は今、天下を治める五月になったことよ。 以上のエピソードから、光秀は大変潔癖な人物であり、 とても優しい人柄を持ち合わせた、戦国時代には珍しいタイプの人だったようです。

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あめ:「天」と「雨」を掛けている。 しる:知る。

✋ 戦国最大の謎ともいえる本能寺の変で、 明智光秀(あけちみつひで)はなぜ、主君の信長を討ったのでしょうか。 連歌会を重ねるごとにその上達ぶりがうかがえる 光秀の連歌の記録として最初に登場するのは、 永禄11年(1568年)11月15日です。

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支配する。

☝ 【挙句】 国々はなほ長閑なる時 (光慶) 光秀が詠んだ発句の「とき」とはつまり、美濃守護土岐氏の出である明智氏のこと。 朝に近い発句を詠んだ時に、降り始めたとはとても考えにくい。

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中国で毛利(もうり)氏と対峙(たいじ)する 羽柴秀吉(はしばひでよし)の要請に応え、出馬するためでした。

📞 韻式は、「aabbccdd」。

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また、句の表現が書き換えられた痕跡があることも問題です。