☮ 【語源・由来】 近世哲学の祖、解析幾何学の祖といわれるデカルトの哲学の基礎をなす考え方を示している。 神の存在証明をすることで、デカルトは自身の懐疑によって排除された理性的知識を確実なものに取り戻したのです。
パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
「我思う、ゆえに我あり」という言葉を聞いたことがある方も多いと思いますが、これはデカルトが唱えた自分の考え方を示す言葉です。
🙄 さらに私があなたの部屋に行き、一緒に窓の外の景色を観たとして、全く同一のものを観ているということも証明できません。 完全で無限なものの観念 「我」などの物質存在は、不完全であるとともに、有限です。
10それでも、もし私が考えてるなら私の精神は存在する。
デカルトは全てのことがらを疑ってみました。
😆 約2500年前に生きた()の教えにも、この言葉について、ふれているものがある「〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。 ちなみに夏目漱石は小説「吾輩は猫である」の中で、「デカルトは『余は思考す、故に余は存在す』という三つ子 三歳児 にでも分るような真理を考え出すのに十何年懸ったそうだ。
8ってなっちゃいますよね。 すっげ」ってなっていますかね?笑 ですが、この名言もカントという哲学者によって簡単に論破されてしまいます。
徹底してますね、ここまで徹底して考えた人は多分それまでいなかったんじゃないかと思いますね。
🔥 これはどんなに疑いの目を向けても、真実だ、とデカルトには思えた。 だから、わたしが存在する。 このように、「神は存在する」と思うことで神の存在が証明できるというデカルトの主張は、われわれ現代人の感覚では詭弁のようですが、デカルト以降の西洋哲学は信仰の固い殻を破って、近代化への長い道のりを手探りで歩みはじめることになります。
18あらゆるものを疑ってみて、論破できたら、全部疑わしいものとして切り捨てた。
ギリシア時代と違い、社会の混乱、宗教の分裂の激しい時代において、生き抜くための思想の再構築、という話ですね。
🙄 普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。 すなわち、すべてのものを疑ったうえでもなお疑いえない確実な真理は、そのように疑っている私自身が存在していることである、と。
これは、 自分という存在や意識というものの発見であり、ここからまた新たな思想や哲学が生まれていくことになります。 ちなみにデカルトによる神の存在証明の論法は、「我思う、ゆえに我あり」と同じです。
そのように考えている思いがあることは確かだ、と。
☘ それは、なぜ生きているのかという根本的な前提の喪失でもあるのです。 考える問題を出来るだけ小さい部分にわけること(分析)• デカルトは絶対確実な真理や存在に到達するまではあらゆる偏見と誤謬を排除し、たとえ真実のように見えても疑う余地がわずかでもあれば徹底して否定することを心がけました。
1つまり、その思考をしている自分だけは確かに存在する、ということに気がついた。 「わたし」は人間ではないかもしれない。
でも存在は疑えちゃいますよ。