勝 海舟 西郷 隆盛。 勝海舟

✊ 第一回交渉(3月13日) 江戸に到着したばかりの西郷と、西郷の到着を待望していた勝との間で、3月13日に行われた第一回交渉では静寛院宮()の処遇問題と、以前山岡に提示された慶喜の降伏条件の確認のみで、突っ込んだ話は行われず、若干の質問・応答のみで終了となった。 三条は箱根で静養中のの元を訪れ、決定を奏上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」という回答が下された。

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ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。

👏 この任務は成功したと後年海舟は語っているが、実際は薩摩藩は拒否したままであり、会津藩と薩摩藩の対立も続いたままだったため完全に失敗していた。 特に批判的であったのがであり、「の番頭さん」と侮蔑していた。 西郷の意見には、らが賛成した。

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慶喜追討の密勅も効力を失い、いずれは旧幕府側との調停も行われるはずだった。 着物も布団もずぶ濡れになり、航海中晴れた日はわずかで乾かす間もなかった。

😆 家茂にこの提案を受け入れさせる一方、海舟は同行していた公家のも抱き込み、の幕府の命令で設立許可が下り、年3000両の援助金も約束、操練所とは別に海舟の私塾も作ってよいと達しも出た。 5月から7月にかけては天皇の関西・中国・西国巡幸に随行した。

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作家のは、自身の著書『人間臨終図巻』の中で、海舟のこの言葉を「臨終の際の言葉としては最高傑作」と評している。 つまり、、、『 南朝正統説』ですね。

😉 4月、藩政改革と陸海軍の拡張を進言し、それが容れられると、5月1日から小松・桂らと藩政改革にあたった。 新政府軍に対して連戦連勝を誇った庄内藩も、仙台藩、会津藩が降伏すると9月27日に降伏し、ここに「東北戦争」は新政府の勝利で幕を閉じた。 6月に兵を率いて海路で江戸から大坂へ到着した小笠原長行が率兵上洛を企て、これが一因でに朝廷から江戸帰還を許された家茂を海舟は順動丸に乗せて海路江戸へ戻ったが(長行は率兵の責任を取らされ罷免)、家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると知っている海舟にとってはやりづらい状況となっていた。

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このような犠牲を払ってまで守っていた田原坂であったが、20日に、兵の交替の隙を衝かれ、政府軍に奪われた。 山岡鉄舟の報告に安堵を覚えた勝海舟ですが、まだ最終決定ではありません。

🙃 5月7日、江戸に帰府。 9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵を図ったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。

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また、西南戦争で逆賊の烙印を押されてしまった、西郷隆盛の名誉回復にも尽力。

🐾 来島まもなく始めた塾も元治元年(1864年)1月頃には20名程になった。

7月19日、斉彬の弟・の子・が家督相続し、久光が後見人となったが、藩の実権は斉彬の父・斉興が握った。 しかし西洋式の訓練を受け、新しい兵器を装備していた新政府軍には及びませんでした。

☭ 神戸は碇が砂に噛みやすく水深も比較的深く大きな船も入れる天然の良港であるので、を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を大阪湾巡回を案内しつつ家茂にしている。 いえ、新しい時代は西郷の力を必要としており、一度は鹿児島に戻った西郷は、大久保利通らに要請されて再び上京、明治政府の要職に就きます。 海舟を自宅へ連れて帰り、が呼んだ篠田と云う外科医に傷をさせた。

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一方、浪士鎮撫の朝旨を受けた久光は、伏見の寺田屋に集結している(和泉)・有馬新七らの激派志士を鎮撫するため、4月23日に・大山格之助()らを寺田屋に派遣した。 2人は初対面ではなく藩主になる前の斉彬が江戸で海舟と交流していたが、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。

🐝 海舟がと初めて会ったのはこの時期、元治元年の大坂においてである。 慶応2年1月8日(2月22日)、西郷は村田新八・(通称は彦八、大山巌の兄)を伴って、上京してきた桂小五郎を伏見に出迎え、翌9日、京都に帰って二本松藩邸に入った。

慶応元年にはの警備の為に右岸に、左岸にを奉行として完成させている。