🔥 この間は、近代短歌再生のキーワードは「連作」だなんて書きましたが、今日は、いったんその話はおいておいて、なぜか、正岡子規の「くれなゐの…」の歌を使って短歌の鑑賞の話です。
3、終止形や命令形で言い切っているところ。 「柔らかに柳靑める北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに」(石川啄木) この歌の句切れは、目に見ゆ」の所です。
助詞の「 の」が言語空間を内部化しているのである。
🐝 詠まれた状況が分かると、はじめて意味が納得できる作品では、自立しないのです。
15また、まだバラに花はありません。 病のひまの筆のすさみは日頃稀なる心やりなりけり。
このあたりに関しては、質問者さんもご存知のことだろうと思います。
👊 それは薔薇に、その芽に、その針に、また春雨には紅として、さらにはその融合では「ほんのりの色合い」に、遂には「春の光」を見出す。 花じゃなくて芽だ。 その中から次の6首を挙げる。
20適当なのが思い付きません。 明日提出予定の宿題ですので、かなり急いでおります。
そんな中で掬った後の金魚の姿を見て、詠み手はがく然とするわけですので、詠み手の心理を鑑賞するのはもちろんですが、それだけではなく、1匹だけ掬われた金魚の「思い」を、人間の楽しい雰囲気・雑踏などと対比して推測してみると、もう少し深みのある鑑賞文になるかもしれません。
😚 まずは、そういった「空間的な動き」。 つまり、「庭」である。 [1]「なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな」。
16ですから,この「くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽」は,まだつぼみがついていてもごく小さいものでしかなく,「くれなゐ」であるのは,「薔薇の芽」そのものであるというわけです。 その解釈は無理ですよ。
咲いていない牡丹の花を見、• 正岡子規の作品は中3と高2で俳句を習うので、それらも今後紹介していきたいと思います。
⚑ 春の憂愁(メランコリー)を詠い、万葉集としてはかなり進んだ、中古的美意識をもって詠んだ歌。 漢字検定にこだわらないアイデアで結構です。
20薔薇 ばら の芽の針 はり=とげ が「 やはらか」であり、また春雨 はるさめ の降り方も「 やはらか」と受け取れます。 でも、「枝も動かず」と書かれると、「枝が動く」様子を想像させられたうえで、「まだ動かない」というイメージになるんです。
啄木は与謝野晶子の歌集「みだれ髪」に影響を受け、 16歳に中学校をやめて、この後上京します。
☕ あるいは、子規は過剰な水を嫌う薔薇に対して、雨の影響を心配しているということなのでしょうか。
19その短歌には情熱的といわれるものも多かったので、人々からは「 やは肌の晶子」と呼ばれていました。
5、倒置法のあるところ。
😍 病む我を なぐさめがほに開きたる 牡丹の花を見れば悲しも 夕立の 今かくるらんすまの浦の 小舟にさわぐ沖つ白波 夕立の はるる跡より月もりて 叉色かふる紫陽花の花 夕立は 隣の里や過ぎつらん 蝉吹き飛ばす椎の葉の風 わが庭の 垣根に生ふる薔薇の芽の 莟ふくれて夏は来にけり 若葉さす 市の植木の下陰に 金魚あきなふ夏は来にけり 秋 秋風の ふくとも見しかむさしのの 尾花をわけて人の行く也 秋の夜を 書(ふみ)よみをれば離れ屋に 茶をひく音のかすかに聞ゆ 秋晴れに 野を飛びわたる鶴むらの いつまでも見ゆる空のさやけさ 「鶴むら」は「鶴の群れ むれ 」と同義です。
3「けり」には、強い詠嘆の気持ちがこめられます。
いい写真がなかったので、うまく表現できませんが、庭に咲いていない薔薇の芽があって、それも含めて庭全体がその目にうつっている、というイメージです。
📱 この歌の要点は、 針自体の柔らかさと春雨のイメージによるやわらかさが掛かっていることであり、また、「くれなゐ」と春雨の透明性を含んだ白色のイメージが対比的に使われていることではないかと思います。 1、切れ字のあるところ。
5しかし、芽かきをしなかったために枝分かれするように伸びてきた芽(茎)にも、おそらく針はできるのでしょう。 また、 >この棘が二尺でないと、文章にならない : ということもないでしょう。
啄木は盛岡で中学校(盛岡尋常中学校)時代をすごしました。